旅する手段とその方法

 日本がスコットランド戦に勝利し、日本のラグビーは大きな前進をしたわけだが、ひとまずそれを祝福したい。まぁラグビーなんて年に1回、正月にインカレの大会見るぐらいで、大体ルールぐらいはある程度知っているものの、それも初心者程度というぐらいしか知らない。ただ年に1回だとしても、やはり好きではあるわけで今の日本代表はだいぶ進歩しているなという印象を持った。そもそもワールドカップ自体のルールが攻撃的でペナルティ後のペナルティキックを決めるシーンがかなり多かった気がする。

 まぁ素人が何を言っても、と思うので一言。

 おめでとう。

 

 さて本題なんだけれども、と言うかここ4年間ブログを更新し更新してなかったしそもそもはてなダイアリーが閉鎖してブログはてなブログに写っていることも知らなかったのだけれども、 Twitter とかもやるようになって、所在地も東京から愛知県に変わって。

 この2年で新しく始めた趣味としては、バイクに乗ること、キャンプすることの2つ。バイクは自分の中ではあくまで手段である、目的地に行くための道具でしかないというところもあるし、キャンプも何か安く泊まれたらいいなというぐらいの感覚でしかないのは今のところだけど、どうも何かとはまりそうではある。

 5月のゴールデンウィークには東北南部を、8月の長期休暇では九州南部を回った。まさか、2年前にはバイクに乗ることすら想像していなかったけれども、今はバイクが無い人生はずっと考えられないような状況ではある、。

 

 旅にはいろいろ方法はあって、例えば新幹線に乗るにしろ指定席やグリーン車はたまた自由席の3つの種類はあるし、名古屋から東京に行くにしたっても東海道新幹線を通るのが普通だとしても、金沢まで出て北陸新幹線で行くそんなルートもある。下道で言ってもいい。

 バイクというのは非常に道路の制約は非常に少ないけれど、環境の制約は結構大きく受ける。例えば真冬にはきちんとした装備がなければ旅行はできないし、雪の中でもバイクは走れない(スパイクタイヤを作って宗谷岬まで走るみたいな人もいるというのは聞いたことがありますが、僕はそこまでやるつもりはありません)。それに今回の九州でも結構ひどい目にあったんだが、大雨にはかなり弱い。ちょこっと出るぐらいならいいんだけれど、キャンプ道具を背負っていくとなると、水浸しが怖いんですよね。車で 行けば全然オッケーなんだけれど、そういうバイクの不自由さ、それが僕は結構好き。一方で、細い道でも急な道でもある程度走れる自由さも僕は好き。

 ちなみに自分が乗っているのは VTR 250。ホンダの V ツインエンジンを用いた最後のバイク、と言っても数年前に販売停止になるまで20年間ぐらい作られていたから、結構な名作だったバイクだろう。パワー不足は否めないけれど街中を走るには十分な能力で、車両重量もかなり軽く取り回しも楽。いいバイクだったと思う。

www.honda.co.jp

 

 VTR 2年ちょっとだけれどもそろそろ新しいバイクに乗り換えようかなと思っている。自分のバイクスタイルが、積載性、党派性に優れた物を求めているということから、次のバイクはおそらく、 オフロード車か、オフロードを走れるアドベンチャータイプの車になりそう。一応目処としてはセロー250が一番いいと思ってる。やっぱりセローは名作ですよ。

www.yamaha-motor.co.jp

 一度225でエンデューロのコースを走ってみたことがあるんだけれども、と言うかは今月末もう一度走りに行くんだけれども、まあ山を走るということもできてかつロードも走れる、スピードは特に求めてない、積載性も高い、そんなバイクはやっぱりセローでしょう。WR250が販売されてたらそれは買ってもよかったのかもしんないけれど、やっぱり燃費も考えるとセローかな。足つきも考えると逆に自分の足では窮屈かもしれない。

 今回の豪雨で氾濫した阿武隈川丸森町ゴールデンウィークのツーリングで通っていて、阿武隈急行丸森駅で写真を撮った記憶がある。まあそれが、というかそれぐらいしか記憶はないんだけれども、あの辺りが災害に遭ってしまったというのは、ちょっとさびしいし、みんな無事でいてくれるよう祈っている。これから日本全国をツーリングしていく上でいつかいろんなところで思うようになるんだろうな。

 だらだらと書いてしまったけれども、一応現状報告も兼ねた、最近の様子です。

日本の報道と産経新聞の一貫性

 題名はたいそうなことかいてますが、たいしたことは言ってません。ただ、いろんな意味で書かないといけないなと思ったため。

 2月11日に産経新聞掲載の長寿コラム「透明な歳月の光」において、作家曽野綾子氏により書かれた内容というのは、正直なところ、ひどく自分をうんざりさせるものでした。介護職を見下した書きぶりもさることながら、南アフリカアパルトヘイト制度廃止後に起こった一例を挙げ、(そういった障害が起こるから)居住地は別にしたほうがいい、つまりアパルトヘイトの本質である「居住の隔離」という部分について肯定するような表現を用いたわけです。
 このような表現に対して、抗議が来るのはもっともな話で、現に南アフリカの駐日大使や、NPO法人である「アフリカ日本協議会」から抗議の意思が示されているようです。


一方で、これについて日本の新聞社が報道したのは以下のとおり。


毎日新聞 産経新聞:曽野綾子氏コラムにNPO法人が撤回求め抗議文 毎日新聞 2015年02月14日 12時44分(最終更新 02月14日 15時35分)
朝日新聞  曽野氏コラムは「人種隔離容認」 南ア大使が産経に抗議 斉藤佑介 2015年2月14日23時00分
東京新聞 南ア大使、産経新聞に抗議 曽野氏コラムめぐり 2015年2月14日 23時46分(共同通信)
・読売新聞 なし

(web上に上がっているものだけなので、見逃しや夕刊に載せられたものもあるのかもしれません)

 大体2月14日の午後以降報道がされるようになったようです。


 しかしながらハフィントンポストの記事が、日本のこれらの記事の少なくとも半日以上前に書かれているとおり、海外の報道のほうが先行して本件に関して報道をしているわけです。思えば、日本国内のことにもかかわらず、海外のほうが先に日本の現状について報道するという状況が多いような気がします。今回もふくめ、NAVERのまとめ記事に挙げられていたとおり、日本の報道が先にたって報道されるものが少なからずあるということです。


 そんな状況を、冗談っぽく、日本の報道は「ガラパゴス報道だな」と思いつつ、こういった政治家や官僚、大物芸能人や有識者(有識かどうかは不明)の言動に対する批評が日本の報道機関からまず出てこないのは、結構深刻な問題なのではないかと思います。そこに問題がある、いや、世界的な価値観(民主国家的な視点?)から見て、問題であるという認識が日本の報道機関には欠けてしまっているのではないかと。

 最近報道の自由度ランキングが発表され、日本は韓国に続いて61位という先進国としてはかなり恥ずかしい位置にいいるのですが、本件のような火事が大火事になってからようやく腰をあげるような対応の遅い日本の報道姿勢というのが、まさに61という数字に表れてしまっているのだと思います。

 毎日新聞のこの記事『産経新聞:曽野綾子氏コラムにNPO法人が撤回求め抗議文 毎日新聞 2015年02月14日 12時44分(最終更新 02月14日 15時35分)』に対して、自分が以下のように、ブックマークをしたのは、まさに「毎日新聞としては、海外が先行して報道した内容を、いまさら日本の報道機関として、報道するということについて、どういう認識を持っているんですかね?」という点を少し揶揄した表現で聞きたかったからなのですが。

k-noto3 で、毎日新聞さんはどう思ってらっしゃるわけで?

 ということで、id:agathonさんが、自分の上のブコメに対し、「なんで毎日新聞の見解が関係あるんだ?」とお伺いいただきましたので、解答を書きました。さすがにメタブクマで書いていくのも面倒くさかったので、2年ぶりにブログを書いたわけですが。ただ回答になっているのかどうかまったくわかりません。というのも、そもそも、agathonさんの言う「なんで毎日新聞の見解が関係あるんだ?」という言葉自体が自分の馬鹿な頭では理解できないのですよ。

 agathonさんが「k-noto3は毎日新聞の見解と“何か”が関係があると認識している」と思っていて、その“何か”と毎日新聞の見解は関係ないだろうとagathonさんは思っているのだと自分は思うのですが、自分にはagathonさんの思っている“何か”が見当つかないので。申し訳ありませんが。コメントなりブクマなりでご教示いただけると幸いです。あと、id:toratorarabiluna273momomtanさんもidコールしておきます。agathonさんのコメントにはてなスターをつけてましたので、おそらく理解していらっしゃるのではないかと思いますので、ぜひお願いします。


 閑話休題



 2月11日という日付は、自分は今回の件で初めて知ったのですが、25年前ネルソン・マンデラ氏が刑務所から釈放されたという出来事があった日であるわけです。日本では建国記念日ですが、こういうことを言うと、日本の一部の方に怒られるのかもしれませんが、一時の政治的な事情で決められた一国の建国記念日よりは、遥かにネルソン・マンデラ氏他の人々の長年の運動の成果のほうが重要ですよ、世界にとっては。
 そんな日に、アパルトヘイトの本質を肯定するような文脈で文章を書いてしまえば、差別を受けてきた人や差別と戦っている人たちにとっては、けんかを売られてることと相違ないわけで、いくら本人がアパルトヘイトを肯定していないと言おうが、そんなことは「差別される人間に対する想像力がない」の一言で言いくるめられてしまうレベルの話なので、産経新聞曽野綾子氏は、大火事が日本全土を焼き尽くす前に、とっとと撤回するのが吉だと思います。
 特に、日本人の評判を貶めている、まさに国益に反する*1行為をしているわけですから。


 ということで、実際の産経新聞曽野綾子氏の反応はこちら


 うん、だめだこりゃ。


 おそらく来週の予算委員会や文教委員会では、曽野綾子氏に対する安倍首相の任命責任等々がいろいろ問われるんだろうなぁ。特に文教委員会では、道徳の副読本?に曽野綾子氏のひと言が載っているわけですから(p27)


 ちなみに産経新聞の小林毅産経新聞執行役員東京編集局長については、以下の3点をお伺いしたい。

1.ある特定の人種に対して「有害有毒な蟻」と表現し、「それを排除しなければならない」という表現は人種差別にあたるかどうか。
2.ある特定の人種のに対して「がん細胞」と表現することは人種差別にあたるかどうか。
3.新聞が、人種差別表現を無批判に載せることは、人種差別を肯定し、助長することにあたるかどうか。

 自分の認識で言えば、1および2および3、いわゆるすべてが「該当する」と思うのですが、おそらく、産経新聞にとっては、すべて人種差別ではないのでしょう。少なくとも、3に関してはそうでないのでしょう。

 というのも、1.については平成22年4月25日に産経新聞に掲載された、河添恵子著『中国人の世界乗っ取り計画』という本についての西尾幹二の書評の一節であり、2.については産経新聞出版である当該書籍の説明文
amazonで確認可)であるわけです。残念ながら、産経新聞には縮小版がないので確認ができませんが、当時自分が見て唖然とした覚えがあります。⇒サヨウナラ、産経新聞。

 そして、最後にこの本の売り上げの一部は産経新聞出版に入るわけです。

産経新聞は、一貫してアパルトヘイトはもとより、人種差別などあらゆる差別は許されるものではないとの考えです」という小林毅産経新聞執行役員東京編集局長の話が事実であるのならば、『ある特定の人種に対して「有害有毒な蟻」と表現し、「それを排除しなければならない」』レベルの内容を新聞に載せるのは産経新聞にとっては差別ではないのであって、おそらくこれからもそういうことはずっと行い続けるという宣言なのだろうと、曲解ですが勝手に解釈させていただきます。

ちなみに、自分は『ある特定の人種に対して「有害有毒な蟻」と表現し、「それを排除しなければならない」』というのは、人種差別であって、それを報道機関が無批判に記事として載せることは人種差別に当たると思いますので、産経新聞には一刻も早く、今までに行ってきた、「産経新聞としては差別という認識はないもの」について、認識を改め、関係各所に謝罪し、一貫した差別をやめ、再出発するよう求めます。日本の国益に反するとともに、日本に住む人々の名誉を無駄に、そして著しく毀損していますから。

*1:この言葉は自分の大嫌いな言葉ですが、産経新聞はよく使っているので、使ってみました。

読了

 「聲の形」を読みました。まーいろいろなところで話題になっている、本作品ですが、自分も久しぶり、おそらく10年位ぶりに少年漫画雑誌に手を出しました。
 ちなみに買うのは初めて。当時は高校の帰りに駅前のミニストップで時間つぶしに読んでたのを思い出します。

 率直な読んだ感想としては、いろいろ痛いよね、突き刺さるよね、ってことでしょうか。いじめをする側が、いじめられる側にシフトする過程であったり、障害者が「お荷物」という感覚で共有されていたり。その中でろうあ者であり、いじめられる女の子が、それでも聲を発そうとする健気さに感動しつつも、そんなカタルシスを得ることに対して嫌悪する自分がいたり。
 被差別者が訴えるのは庇護されることではなく、普通に暮らすことができることなのだと想像するけれど、(もちろんそれを成す為に一時的に庇護される状況はありうる)物語を成立させるため、庇護される障害者を描かないといけないというのが、差別を描く上での“危うさ”なんだとつくづく思うんです。
 普通に暮らすということは、「普通に愛されたい」、と同時に「普通に嫌われていい」、という点も含むべきであって、彼彼女らが危惧するのは、「異常として嫌われる、差別される」事がないように「善良として、愛される」という点に集結してしまい、さらには「愛されるためには善良でなければならない」に、またさらに「善良であるべき人が、善良でなければ嫌いになって良い」というような論理に結びつきかねないという、そういうことだと思うんだよね。それはid:lessorさんの"マジョリティにとって受け入れられやすい障害者像を描くことには危うさが伴う"の一言に集約されるんだけれど。

■「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

ろうあの人とは、生まれてこのかた十数人にあってきたけれど、やはりいい人もいれば変わった人もいたよなぁと思う。これは母の意見だけれども、生前から耳が聞こえないろうあの人が、生後事故で耳が聞こえなくなったろうの人(こういう言い方はしないと思うけれど)に対して、差別意識を持っているということがあるみたいだ。つまり、ろうの人はろうあの人のコミュニティには入れないということ。差別される人たちの中でも、別の差別が生成されるということはよくあるけれど。
 ちなみに、自分の父親のろうあの人に対する印象は「感情表現がストレート」「意見を率直に言う」というもの。果たしてこれは正しいんだろうかと考えるけれど、どうでしょうか。

 今回の漫画は自分の幼少期のろうあの人との出会いを想起させたけれど、ひとつ気になることはろうあの人が喋るというシーンを"今現在見かけなくなった"ということ。自分が彼らにあってた時は、よくしゃべってた気がする。
 中学までろうあの人がやってる床屋に言ってたけれど、その人も自分に対しよく喋りかけてくれた。よくわからなかったけど。
 今、たまに見かけるろうあの人はみんな声を出さない。手話と読唇法でしゃべる。声は出さない、すごく静かだ。この、声を出す、出さないかの変化が、今の都会や昔住んでた田舎といった場所によるものなのか、周りに健常者がいるかどうかという対話環境によるものなのか、それはよくわからない。もちろん本人たちに確認したことはない。
 でも、今回の漫画で登場したろうあの女の子は、「歌を歌いたい」と言った。もし、今のろうあの人たちが声を出したいのに出せないのだとしたら、その圧力はボクら健常者が作り出してるものに違いない。それが、それがすごく痛い。



※最初ブログを書いているとき、「聾唖」、「聾」という表現を使いました。ただ、「聾唖」という表現が差別的ではないかと頭をよぎって。それは何か信念を持ったわけえではなく、そういう話を聞いたことがあったから。この漫画の監修についている「全日本ろうあ連盟」も、"聾唖"を"ろうあ"と平仮名で書いている。今後平仮名の「ろうあ」を用いていこうと思っています。


参考

『聲(こえ)の形』を読んで、リアル1級身体障害者が語る『障害者として生きる現実』
http://だいちゃん.com/?p=540


今週のマガジンの読み切り『聲の形』がとにかくすごい作品だった
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51766845.html


【騒然!「週刊少年マガジン」掲載「聲の形」を読むべし】
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130221/E1361438860042.html

衆議院選挙も終わって

 結局自民党が圧勝という結果に終わりましたが、皆さんの予想はどうだったんでしょうか。低投票率になれば、自民有利というのは以前からもずっと指摘されていた通りで、今回はモロにその影響を受けていたのではないでしょうか。自分としては、小選挙区民主党、比例は共産党に入れました。愛知県全体を見ると、未来と民主が互いに食い合っていたというような感じ。全体を見ると、民主票が主に維新とみんなの党に分かれていました。比例での得票数は民主より維新の方が多かったわけですが、小選挙区の結果で民主党には議席が3席足りないという形となりました。
 小選挙区での死票は53%(2012/12/18中日新聞)。これが多いか少ないのかはわかりませんが、個人的に半数以上の死票が出て居る状況というのはあまりよろしくないですし、国会議員になる方々は十分把握しておいてもらいたいものです。今回は特に最高裁違憲状態と判断している状況での選挙であるわけで、また低投票率と合わせて選挙制度そのものの改善(公職選挙法の改正ももちろん含め)もちろんやっていただきたい。最高裁違憲無効としてくれたらそれはそれで面白い(今回も全員国民の信任を得ているわけですから)ですが、まそんなことは起らないでしょう。

 まー左まがりの身としては今回の選挙は残念なんですが、最初から結果が見えてましたから。どのみち今いる民主党の中にすら左派と親和性の高い人は少ないですし。
 ところで左派、もといサヨクといえば選挙期間中に法華狼さんところで見つけた倉山満さんの「サヨク度チェック」。ちょっとやってみましょう。

一、 天皇・皇室キライ。なんであいつらいるの?

 回答 ×

  個人的に天皇や皇室に対して嫌悪感を感じたことはあまりない。ただ、制度に対する疑問点としては、そもそも心情として存在してはいけない人間なんていない、ってのが自分の根幹にあるというのもあるけれど、不当に人権が制限されているってのがいかんと思うのね。一水会会長の木村三浩さんが、雨宮処凛との対談で話していたけれど、還都論、つまり一度京都に帰っていただくことで政治と切り離すということも必要なんじゃないでしょうか。将来的に左派政権になったまた政治に利用されるよりは。

二、 君が代なんて歌えない。(日の丸は侵略の象徴だからヤ。)

 回答 ○

  「君が代」が国旗国歌法で制定された後、国歌だから歌うのが当然、国旗だから敬うのが当然みたいな議論になって、じゃ法律で国歌が「インターナショナル」になったらお前ら歌うんか、って思った時期があるけど、みなさん他の人はどうなんでしょうか。基本的に歌ったらいかん歌なんてあるもんか、と思いますし、歌いたくなかったら歌わなくてもいいという状況でいいんじゃないの?と思います。
  話はずれますが、高校時代「君が代」の意味を丁寧に教えてくれた国語教師がいましたが、古文読解をして「ほら、天皇を崇拝する歌じゃないんだよ」、と言われてもそれが歌われてきた文脈を理解することなしに、「君が代」を聞きたくない人の心情を理解することは出来ないわけですが、そこんトコロどう思っていたんでしょうか?

三、 戦争はこの世で最も悲惨な出来事です。(最悪はアジア太平洋戦争。)

回答 ○
  悲惨をどう定義するかはわからないけれど、少なくとも自然災害のように回避できないものではなく、かつ回避可能性がある程度の努力により出来るという状況下で起きてしまうもののうち、人が亡くなる規模が大きいのが戦争であるわけで、逆に戦争が最も悲惨ではないという人がいるとしたら、その人にとっての最も悲惨な出来事とは何か非常に気になるところではあります。
  ただ、戦争よりも隷従が悲惨だという人もいるとは思いますし、人為的な飢餓や、科学技術の進歩による弊害が悲惨という人もいるとは思います。
  太平洋戦争の何が悲惨なのかといえば、それは“僕ら”の戦争だという点ですよ。戦争によって人を殺すのも、人が殺されるのも“僕ら”が関わっていたから悲惨なんです。

四、 外国と仲良くすることは良いことです。(東京裁判の結果を真摯に受け止めましょう。)

回答 ○(但し、後半は×)
  政治上の駆け引きはある程度必要だと思うけれど、この命題の裏である「外国と仲良くすることは悪いこと」だとは全く思いませんが。東京裁判については詳しくありませんが、左翼として一言言うのであれば、結局誰も戦争を始めた責任とってないよねということにほかならないわけですが。

五、 軍隊がない社会って理想だよね。(自衛隊って憲法違反でしょ。無くさないと。)

回答 ○
  理想と現実という言葉を用いるのなら、軍隊がない社会って理想であるというのはやはり僕にとっての理想であるわけです。それは自衛隊憲法違反であろうとなかろうと同じこと。ただ、自衛隊をなくすべきか、と言われたらそれは今のところわかりません。判断保留にさせてください。
  また話がずれるけれど、よく言う「憲法9条は現実に合っていないから現実に合わせるよう変えるべきだ」という主張で憲法改正をしたり顔で訴える人間は全く信用できないと思います。憲法が国家としての形を作るものであるのならば、前提となるのは国家観でなければいけないと思うわけですし、現状に合わないとのたまう人間は現状が変わるたびに憲法を改正し続けようとするのが目に見えてるからです。
*1

六、 核廃絶は人類の義務です。(核武装など論外)

回答 ○
  知人がヒロシマで亡くなっているというのが大きい。
  核抑止論というのは、自分からは核を撃たないという前提で核を持つ二国間が牽制するという理論だと勝手に考えてますが、逆に言えば相手が核を打たない以上、核以外の選択肢も必要になるということじゃないでしょうか。どちらかというと感情面が大きいですわ、これに関しては。

七、 日本は中国に悪いこととしたんだから、仲良くしたげようよ。(南京etc)

回答 ×
  過去にいじめた相手に対し、かわいそうだから友達になってやるよと迫るそんなハートフルなストーリーですね、わかります。というかこの設問どんだけ上から目線なんだか。あと歴史は学者に聞きなさい。政治の問題ではない。

八、 日本は北朝鮮に悪いこととしたんだから、仲良くしたげようよ。(強制連行etc)

七に同じ。

九、 宗教って格好悪い。(首相が八月十五日に靖国神社を参拝するって何考えてんの?)

回答 ×
  自分自身、無教会主義のキリスト教徒を自称していますが何か。括弧内は○ですが、

十、 民主主義っていい言葉だよなあ(戦後民主主義教育マンセー。)

回答 △
  民主主義という言葉自体にいい悪いはないと思いますが。民主主義はいい言葉と言うのであれば北朝鮮だっていい国名ですよねー。民主主義の理念ということであれば、好感はあります。というか民主国家であるというのが西側の先進諸国の仲間入りをする上での必要事項なんじゃないでしょうか。戦後民主主義教育って言うけれど、戦後の教育を担ってきたのは自民党政権であるし、正直なところ民主主義に対する教育なんてほとんど出来てないじゃん。政治家を学校に読んで討論をさせるとか、自分なりの憲法草案を書かせてみるとか、そう言った発想は全くないよね。中学で社会契約とは何かって言われてもほとんど答えられる中学生はいないでしょ。何を教育してきたんだって感じですよ。

十一、人権っていい言葉だよなあ(日本国憲法は未来永劫守りましょう。)

回答 ○
  というか生まれながらにしてもつ人権の尊重というのが西側の先進諸国の仲間入りをする上での必要事項なんじゃないでしょうか。但し、括弧内はちょっと。

十二、アメリカ、好きだよ。(でも原爆はちょっと〜。)

回答 ○
  アレックス・ギブニーというドキュメンタリー映画の監督が「TAXI TO THE DARK SIDE」というドキュメンタリー映画のインタビューで、アメリカは間違いを犯したとき、それを指摘できる強さがある、みたいなことを言っていたのですが、(うろ覚え)それと同じ意見です。残念ながら、これは確実に日本にはない。

十三、外国人参政権認めないのって差別じゃないの?

回答 △
永住外国人に限っては認めるべきでしょう。それ以外はなんとも。

十四、移民を受け容れOK!(グローバル化だから共生の社会をつくりましょう。)

回答 △
  これについては、法華狼さんと同じ意見です。現状の受け入れ要請をそのまま受けてしまうと問題があるんじゃないの?

十五、震災復興のためには消費税増税もやむなし。(反対している奴は人でなし。)

回答 ○
  正直なとことこれは結構迷ってはいるところなのですが、震災復興のためという条件と、生活必需品には掛けないという条件付きで。



以上です。最後めんどくさくなって適当にやった感が否めませんが(笑)正直なところです。
しかし、これが一体サヨクの何を図るんだろうかと思いますがねぇ。12番での親米左翼ってのは存在しないものだと自分は思ってましたし、人権とか民主主義といったタームは左派とは直接関係ないと思いますが。

*1:結局半年前の日記はこのことを書いてたわけですがhttp://d.hatena.ne.jp/k-noto3/20120503/1335999555

そりゃTNTNが見えるほどのパンツよりはハーフパンツがよろしいさ。でもね、考えることあるでしょ。

 脈絡もクソもないですが、中学生時代の話。

 当時の学校内の問題として体育で用いるズボンを変えようという運動が校内で勃発した。うちの中学校で用いられていたズボンは2種類で、長ズボンのジャージとショートパンツ。そのショートパンツはホットパンツぐらい短くて、太ももが見え放題。しかも、パンツの足回り自体が緩々で、体育座りをすると、男子のトランクスの中身まで見えてしまいそうなもの。もちろん女子も同じものを履いてた。
 当然男子よりも女子からの反発が強くて、ハーフパンツに切り替えようという意見は以前から出ていたのだけれど、自分の世代でその運動がピークに達したわけ。
 もちろん自分も、ハーフパンツのほうが使い勝手がいいので、その方向性自体いいなぁと思っていたことは確かなんだけれど、その運動が本格化した時、ひとりの国語の先生(S先生としておきますか)がふと一言。

「そんな長ズボンの履き方してるあんたらが、校則もろとも変更して新しくハーフパンツに変えるっていうの?」
 この言葉(自分の中でデフォルメされてると思うので正確ではない)をS先生から聞いたとき、当時も今も馬鹿である自分、さらにクラスメイトの殆どが分からなかった言葉だけれど、この言葉は意外と重い。その重さに気づいたのは大分あとだけれど。

 うちの中学、もちろんほかの学校やジャージ一般に関して言えることだけど、長ズボンのジャージには足首の箇所にジッパーが付いているのね。自分は今冷静に思うとあのジッパーの意味はなんだと考えるんだけど、おそらくは靴を履いたまま脱げるように考えられたものなんでしょう。そこを最大まで開いて、ひどい奴になると、それ以上も裂いてズボンを履きこなすっていう何か変なルーズファッションが流行っていた。もちろん腰パンと言って、ズボンを腰まで下ろしていたりもしたから、ズボンの裾がボロボロになるんだけれど。

 それを見かねた上でのS先生の言葉。クラスの誰かは「パンツとズボンの問題は別問題でしょ」と言った覚えがある(S先生の反応がなんだったかはもう覚えていない)けれど、問題はそんなところにはない。校則という規則に法って、学校生活が営まれるのであれば、校則を変更することによってその利益を享受するものは、校則を守ることを前提としているものだけだ。逆に言えば、規則を守ろうとしない人間が、校則を変更することによる利益はない。だってもともと従ってなかったでしょ。
 さらに言えば、道義的意味もある。まさに「どの口が言うか」という問題。
 

 本日は憲法記念日憲法に関して、色んな議論が様々なところで開かれる。憲法改正憲法維持その他もろもろ意見が出てくると思う。でも少なくとも自分は、憲法にしたがってきちんと政治をしてきた人以外の声は聞くに値しないと判断する。
さらに「どの口が言うか」という政治屋に対しては断固批判していきたい。

 誰のことかって、そりゃアンタらのことだろうよ。
    http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120221/lcl12022120590006-n1.htm

おめでとうございます。

はてなでブログを書こうと思ったものの、全然書けなかった一年でした。というか、ブックマークすらなかなか出来ない状態。
MGS4の感想も書きたいし、MGSPWのプレイもしたいし、という現状ですが、今年も思うように進まないでしょう。
旧ブログの記事もちょこちょこっと移動させてこようかなと思います。

ひとまず、今年が良い年になりますよう祈っております。

オウム裁判終了

 このところ、オウム関連の話題が巷を賑わしていると思ったら、そういうことだった。当時小学生だった自分にとって、地下鉄サリン事件よりも、オリックスイチローや、阪神・淡路大震災の方が印象に残っている。ま、そんなもんだ。

 オウム(現アレフ)への入信者が増えているらしい。その状況にいろんな分野でのコメンテーターが、
「オウムの事件を知らない若い人間が…」
みたいなことを唱えるたびに、はぁとため息をつきたくなる。
 オウム関連の事件が表沙汰になったとき以降、まぁ2000年頃だと思うけれど、当時もオウムへの信者が増えていると報道されていた気がする。さすがに事件から5年も経てば信者だって回帰的に増えることだってあるだろうし、それは現在にしたって変わらない。単にオウムの事件を知っているか知らないかだけでオウムへの入信者が決まるわけではないのだ。

 それでも、「オウムのことを知らない若い人間が…」という言葉は一人歩きをし、あたかも若い奴が何も知らないかのように、そしてそのことを悪(平たく言えばバカ)であるかのように言う。そんな一部ネットでの反応を、見なきゃいいものの見てしまう自分は本当にバカだ。そしてこの15年間で結局は何も変わってないのだなとも感じ、落ち込む。まったくもってバカだけれど、落ち込んでしまうのだ。

 そもそも、オウムの事件につい僕らは何を語ってきだろうか。

 “オウムとは非人道的なことを行なった宗教団体である”

まぁ、間違っていないでしょう。すべての信者が想ではないけれど。

 “都市部で起こった日本の歴史上最大の化学テロである”

これも間違いない。おそらく世界的に見てもそうなんじゃないのかな。

 “逆恨みと報復で多くの人間を消し去ってきた”

これも間違いない。



 でも、果たしてそれがオウムの一連の事件の全てなのだろうか。実際僕らは何を知ってるのだろう。この事件に対して何を総括したのだろう。社会に影響を与えた事件であると感じること以外に、僕らは何をやってきたのだろう。

 さきほど述べたように、この事件を知らない若い人がいることに対して、一部で声が上がっているようだけれども、うちらだって知った気になっているだけじゃない。何をあなたは知っているの?多くの人にとって、この事件は記号としての意味しか持っていない。というか、あらゆるニュースなんて結局は主観的体験をもたらさないデータに過ぎないし。
 本当にその人間にとって重大な出来事であるのならば、きちんとした意味付けが必要でしょう。それは総括と呼ぶのがふさわしい。それをしない大部分の人が、いくら主語を喪失したデータを放出しても、社会にとって利益にはならない。

 ひどい事件だった。
 被害者は無念だろう。
 こんな奴ら許せない。
 早く死刑にしてくれ。

 そもそも、大きな意味で被害に遭っていない僕らが、許すとか、許さないとかそういった土台に立てると思い込んでしまう時点で、僕らにとっての現実(リアル)じゃねぇんだ。でもこれは、そう思うことを被害者に強要する。彼らに対し、泣き、怒り、叫ぶ場面を求め、笑ったり、喜んだりする場面は見ようともしない。そんな世の中に僕らは立脚する。でもね、事件や裁判は、自分らのカタルシスのためにあるもんじゃねぇんだよ。

 犯人に生きて欲しいと願う被害者だって少ない人数だけどいる。なくことに疲れてしまう被害者だっている。事件なんか忘れてしまいたい人だっている。彼らは当事者だもの、当事者として事件に向き合い、考え(というか考える土台に立たされる)、悩み、泣き、怒る。

 僕らは本質的には、それを見守ることしかできねぇのよ。あたかも、当事者でない僕らが分かったような顔をして怒り、分かったような顔をして泣き、分かったような顔をして死刑を訴え、そして、なかったかのように忘れる。そこに被害者がずっといるという事実すらも省みることなくね。
 
 これは別にオウムだけにかかる問題じゃない。殺人事件であれ、傷害・強盗事件であれ、危険運転致死罪に問われるようなケースであれ同じなんですよ。

 それでも犯罪が憎いんだとおっしゃる方は多分大勢いる。というか、多分それ自体は間違っていないでしょう。自分も犯罪を賞賛してるわけでも、必要悪との諦めも感じているわけではなし。

 では、何をするか。

 行動するしかないでしょう。もちろん、主体的に犯罪を無くす活動ですよ。そういう意味で行けば、罪を犯しそうな人を片っ端から殺していきます!ってな宣言もありだと思うね。もちろん、殺すのはあなたですよ。現に、アメリカはこれから重大な犯罪を犯すかもしれないからとイラクに侵攻し、フセインを捕まえ処刑したわけだからね。

 個人的にお薦めで、一番犯罪を減らすのに効果的だと思うのは、裁判員制度と並行して「保護司制度」を設けること。
 ここ2年で裁判員制度が施行され、保護観察処分が下るケースも結構増えてきました。
http://www.news24.jp/articles/2010/04/17/07157593.html
 それと並行して、保護司も必要となってくるのですが、その法制度はいまいち急激な保護観察の増加に対応できていない(上限があらかじめ決まっていたりする)ようです。
http://d.hatena.ne.jp/gvstav/20091121/1258803339
 という訳で、国民には「保護司」に強制的になってもらいます。もちろん、今までよりも保護司の絶対数を増加し、一人の保護観察処分について付ける人数を増やすのです。現在の保護司の任期は2年ですが、これももちろん延長します。そうやって、社会全体で保護観察を受け入れる土壌を広げるのです。

 保護司になった人間には、その保護観察処分を受けた人間がどういったその後の人生を歩むかにより、報酬と罰則が付けられます。
 再犯の場合は、保護司に対しても相応の刑が処せられます。だって、犯罪を防ぐことができる立場にいるのに、それを防げなかったんですから。自己責任です。ただし、向社会的活動を行うようになった場合は、定期的に表彰と金一封が貰えます。これでいい緊張感を持って、保護司としての職務が果たせるわけです。保護司の任期は2年以上ですが、その間は無給です。それはもちろん、現時点でもボランティアですからね。ただ、あなたの努力によって犯罪がどんどん減らせて、さらに報酬までもらえる可能性がある。なんて素敵な制度ではないでしょうか。

 今現在でも、保護司は”なぜか”人材不足なので、立候補すれば更生保護法に基づききちんと国家公務員としての立場を得ることができますよ。今まで、にっくき犯人を死刑にしたいと思っても、裁判やらなんやらの慣習により死刑にできなかった事件など多くありました。司法というのはそれだけ国民から影響を与えるハードルが高いものです。死刑は犯罪を抑制している、ならば保護司という職務について、さらに犯罪を少なくしていきましょうではありませんか。




 結局オウム以降、にしてもオウム以前にしても僕らは何もしていない。ただ単に与えられた情報をリアルだと言われ、憤慨しているような気になり、悲しんでいるような気になり、怒っているような気になり、忘れる。そしてまた新たなカタルシスをさがすんだ。僕らはこのループを繰り返す。


 この壮大なテロを起こした集団のことを、10年後に果たして"自覚的に"覚えているひとはいるのだろうか。いや、そんなひとは当事者と一部の物好きにしかいない。今回のように、たまたま日の当たる場に出て、思い出しただけだ。だって、僕らは何も知らないし、知ろうともしていないもの。