オウム裁判終了

 このところ、オウム関連の話題が巷を賑わしていると思ったら、そういうことだった。当時小学生だった自分にとって、地下鉄サリン事件よりも、オリックスイチローや、阪神・淡路大震災の方が印象に残っている。ま、そんなもんだ。

 オウム(現アレフ)への入信者が増えているらしい。その状況にいろんな分野でのコメンテーターが、
「オウムの事件を知らない若い人間が…」
みたいなことを唱えるたびに、はぁとため息をつきたくなる。
 オウム関連の事件が表沙汰になったとき以降、まぁ2000年頃だと思うけれど、当時もオウムへの信者が増えていると報道されていた気がする。さすがに事件から5年も経てば信者だって回帰的に増えることだってあるだろうし、それは現在にしたって変わらない。単にオウムの事件を知っているか知らないかだけでオウムへの入信者が決まるわけではないのだ。

 それでも、「オウムのことを知らない若い人間が…」という言葉は一人歩きをし、あたかも若い奴が何も知らないかのように、そしてそのことを悪(平たく言えばバカ)であるかのように言う。そんな一部ネットでの反応を、見なきゃいいものの見てしまう自分は本当にバカだ。そしてこの15年間で結局は何も変わってないのだなとも感じ、落ち込む。まったくもってバカだけれど、落ち込んでしまうのだ。

 そもそも、オウムの事件につい僕らは何を語ってきだろうか。

 “オウムとは非人道的なことを行なった宗教団体である”

まぁ、間違っていないでしょう。すべての信者が想ではないけれど。

 “都市部で起こった日本の歴史上最大の化学テロである”

これも間違いない。おそらく世界的に見てもそうなんじゃないのかな。

 “逆恨みと報復で多くの人間を消し去ってきた”

これも間違いない。



 でも、果たしてそれがオウムの一連の事件の全てなのだろうか。実際僕らは何を知ってるのだろう。この事件に対して何を総括したのだろう。社会に影響を与えた事件であると感じること以外に、僕らは何をやってきたのだろう。

 さきほど述べたように、この事件を知らない若い人がいることに対して、一部で声が上がっているようだけれども、うちらだって知った気になっているだけじゃない。何をあなたは知っているの?多くの人にとって、この事件は記号としての意味しか持っていない。というか、あらゆるニュースなんて結局は主観的体験をもたらさないデータに過ぎないし。
 本当にその人間にとって重大な出来事であるのならば、きちんとした意味付けが必要でしょう。それは総括と呼ぶのがふさわしい。それをしない大部分の人が、いくら主語を喪失したデータを放出しても、社会にとって利益にはならない。

 ひどい事件だった。
 被害者は無念だろう。
 こんな奴ら許せない。
 早く死刑にしてくれ。

 そもそも、大きな意味で被害に遭っていない僕らが、許すとか、許さないとかそういった土台に立てると思い込んでしまう時点で、僕らにとっての現実(リアル)じゃねぇんだ。でもこれは、そう思うことを被害者に強要する。彼らに対し、泣き、怒り、叫ぶ場面を求め、笑ったり、喜んだりする場面は見ようともしない。そんな世の中に僕らは立脚する。でもね、事件や裁判は、自分らのカタルシスのためにあるもんじゃねぇんだよ。

 犯人に生きて欲しいと願う被害者だって少ない人数だけどいる。なくことに疲れてしまう被害者だっている。事件なんか忘れてしまいたい人だっている。彼らは当事者だもの、当事者として事件に向き合い、考え(というか考える土台に立たされる)、悩み、泣き、怒る。

 僕らは本質的には、それを見守ることしかできねぇのよ。あたかも、当事者でない僕らが分かったような顔をして怒り、分かったような顔をして泣き、分かったような顔をして死刑を訴え、そして、なかったかのように忘れる。そこに被害者がずっといるという事実すらも省みることなくね。
 
 これは別にオウムだけにかかる問題じゃない。殺人事件であれ、傷害・強盗事件であれ、危険運転致死罪に問われるようなケースであれ同じなんですよ。

 それでも犯罪が憎いんだとおっしゃる方は多分大勢いる。というか、多分それ自体は間違っていないでしょう。自分も犯罪を賞賛してるわけでも、必要悪との諦めも感じているわけではなし。

 では、何をするか。

 行動するしかないでしょう。もちろん、主体的に犯罪を無くす活動ですよ。そういう意味で行けば、罪を犯しそうな人を片っ端から殺していきます!ってな宣言もありだと思うね。もちろん、殺すのはあなたですよ。現に、アメリカはこれから重大な犯罪を犯すかもしれないからとイラクに侵攻し、フセインを捕まえ処刑したわけだからね。

 個人的にお薦めで、一番犯罪を減らすのに効果的だと思うのは、裁判員制度と並行して「保護司制度」を設けること。
 ここ2年で裁判員制度が施行され、保護観察処分が下るケースも結構増えてきました。
http://www.news24.jp/articles/2010/04/17/07157593.html
 それと並行して、保護司も必要となってくるのですが、その法制度はいまいち急激な保護観察の増加に対応できていない(上限があらかじめ決まっていたりする)ようです。
http://d.hatena.ne.jp/gvstav/20091121/1258803339
 という訳で、国民には「保護司」に強制的になってもらいます。もちろん、今までよりも保護司の絶対数を増加し、一人の保護観察処分について付ける人数を増やすのです。現在の保護司の任期は2年ですが、これももちろん延長します。そうやって、社会全体で保護観察を受け入れる土壌を広げるのです。

 保護司になった人間には、その保護観察処分を受けた人間がどういったその後の人生を歩むかにより、報酬と罰則が付けられます。
 再犯の場合は、保護司に対しても相応の刑が処せられます。だって、犯罪を防ぐことができる立場にいるのに、それを防げなかったんですから。自己責任です。ただし、向社会的活動を行うようになった場合は、定期的に表彰と金一封が貰えます。これでいい緊張感を持って、保護司としての職務が果たせるわけです。保護司の任期は2年以上ですが、その間は無給です。それはもちろん、現時点でもボランティアですからね。ただ、あなたの努力によって犯罪がどんどん減らせて、さらに報酬までもらえる可能性がある。なんて素敵な制度ではないでしょうか。

 今現在でも、保護司は”なぜか”人材不足なので、立候補すれば更生保護法に基づききちんと国家公務員としての立場を得ることができますよ。今まで、にっくき犯人を死刑にしたいと思っても、裁判やらなんやらの慣習により死刑にできなかった事件など多くありました。司法というのはそれだけ国民から影響を与えるハードルが高いものです。死刑は犯罪を抑制している、ならば保護司という職務について、さらに犯罪を少なくしていきましょうではありませんか。




 結局オウム以降、にしてもオウム以前にしても僕らは何もしていない。ただ単に与えられた情報をリアルだと言われ、憤慨しているような気になり、悲しんでいるような気になり、怒っているような気になり、忘れる。そしてまた新たなカタルシスをさがすんだ。僕らはこのループを繰り返す。


 この壮大なテロを起こした集団のことを、10年後に果たして"自覚的に"覚えているひとはいるのだろうか。いや、そんなひとは当事者と一部の物好きにしかいない。今回のように、たまたま日の当たる場に出て、思い出しただけだ。だって、僕らは何も知らないし、知ろうともしていないもの。