読了

 「聲の形」を読みました。まーいろいろなところで話題になっている、本作品ですが、自分も久しぶり、おそらく10年位ぶりに少年漫画雑誌に手を出しました。
 ちなみに買うのは初めて。当時は高校の帰りに駅前のミニストップで時間つぶしに読んでたのを思い出します。

 率直な読んだ感想としては、いろいろ痛いよね、突き刺さるよね、ってことでしょうか。いじめをする側が、いじめられる側にシフトする過程であったり、障害者が「お荷物」という感覚で共有されていたり。その中でろうあ者であり、いじめられる女の子が、それでも聲を発そうとする健気さに感動しつつも、そんなカタルシスを得ることに対して嫌悪する自分がいたり。
 被差別者が訴えるのは庇護されることではなく、普通に暮らすことができることなのだと想像するけれど、(もちろんそれを成す為に一時的に庇護される状況はありうる)物語を成立させるため、庇護される障害者を描かないといけないというのが、差別を描く上での“危うさ”なんだとつくづく思うんです。
 普通に暮らすということは、「普通に愛されたい」、と同時に「普通に嫌われていい」、という点も含むべきであって、彼彼女らが危惧するのは、「異常として嫌われる、差別される」事がないように「善良として、愛される」という点に集結してしまい、さらには「愛されるためには善良でなければならない」に、またさらに「善良であるべき人が、善良でなければ嫌いになって良い」というような論理に結びつきかねないという、そういうことだと思うんだよね。それはid:lessorさんの"マジョリティにとって受け入れられやすい障害者像を描くことには危うさが伴う"の一言に集約されるんだけれど。

■「差別」と「いじめ」が重なるマンガだった
http://d.hatena.ne.jp/lessor/20130220/1361383183

ろうあの人とは、生まれてこのかた十数人にあってきたけれど、やはりいい人もいれば変わった人もいたよなぁと思う。これは母の意見だけれども、生前から耳が聞こえないろうあの人が、生後事故で耳が聞こえなくなったろうの人(こういう言い方はしないと思うけれど)に対して、差別意識を持っているということがあるみたいだ。つまり、ろうの人はろうあの人のコミュニティには入れないということ。差別される人たちの中でも、別の差別が生成されるということはよくあるけれど。
 ちなみに、自分の父親のろうあの人に対する印象は「感情表現がストレート」「意見を率直に言う」というもの。果たしてこれは正しいんだろうかと考えるけれど、どうでしょうか。

 今回の漫画は自分の幼少期のろうあの人との出会いを想起させたけれど、ひとつ気になることはろうあの人が喋るというシーンを"今現在見かけなくなった"ということ。自分が彼らにあってた時は、よくしゃべってた気がする。
 中学までろうあの人がやってる床屋に言ってたけれど、その人も自分に対しよく喋りかけてくれた。よくわからなかったけど。
 今、たまに見かけるろうあの人はみんな声を出さない。手話と読唇法でしゃべる。声は出さない、すごく静かだ。この、声を出す、出さないかの変化が、今の都会や昔住んでた田舎といった場所によるものなのか、周りに健常者がいるかどうかという対話環境によるものなのか、それはよくわからない。もちろん本人たちに確認したことはない。
 でも、今回の漫画で登場したろうあの女の子は、「歌を歌いたい」と言った。もし、今のろうあの人たちが声を出したいのに出せないのだとしたら、その圧力はボクら健常者が作り出してるものに違いない。それが、それがすごく痛い。



※最初ブログを書いているとき、「聾唖」、「聾」という表現を使いました。ただ、「聾唖」という表現が差別的ではないかと頭をよぎって。それは何か信念を持ったわけえではなく、そういう話を聞いたことがあったから。この漫画の監修についている「全日本ろうあ連盟」も、"聾唖"を"ろうあ"と平仮名で書いている。今後平仮名の「ろうあ」を用いていこうと思っています。


参考

『聲(こえ)の形』を読んで、リアル1級身体障害者が語る『障害者として生きる現実』
http://だいちゃん.com/?p=540


今週のマガジンの読み切り『聲の形』がとにかくすごい作品だった
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51766845.html


【騒然!「週刊少年マガジン」掲載「聲の形」を読むべし】
http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20130221/E1361438860042.html