ドイツと日本人のハーフはなぜかトルコ系に見えるという話

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知人の知人(どんだけ曖昧な関係だよ)の話。
彼はドイツ人と日本人のハーフで、ま、主題のとおりトルコ系の容貌に見える。大学生のとき、いきなり職質にかけられた彼は、何も答えないでいると、「その手に握っているものを見せろ」警察官の集団に言われた。
彼がそれを見せないでいると、無理やり警察官がその手を引き離そうとし、抵抗する彼に対して
「こいつヤク持ってるぞ」
と叫ぶ。

まぁ、結局見つかったのは汗まみれの小銭だったわけなんだけれど、当時これを聞いた自分は笑ってしまった。




そんな自分がいたこと、つまり、この話を聞いたときに笑うという感覚を持っていた自分に対し、今は非常に腹が立つ。


死んだ後の世界なんて自分にとっちゃどうでもいいのだけれど・・・

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 自分の祖母がなくなった,一昨年の10月。ちょうど,祖父の十七回忌を終えた数日後のことで,風呂場で頭を打った状態で見つかった。90歳になる祖母は一人暮らしで,足も満足に動かない状態だったのにもかかわらず,風呂はしっかり入っている人間だった。どうも,事故でなくなるというのは外聞が悪いのだろうと,死亡証明書は確か病死扱いになっていたと聞いている。

 葬式はなくなった明後日に行われたけれど,ほとんど葬儀会社任せだったと思う。祖父がなくなったときに懇意にしてもらった葬儀屋にすぐ連絡して発見されたその日のうちに段取りが決められていた。祖母が発見されたその日,父は祖母の家に泊まったが,一人で心細いのか自分にいてくれと頼んだ。こういった大人の弱いところを見るのは結構なショックを受ける。

 祖母は熱心な真宗大谷派の信者で,なくなったときそばにあった本は五木寛之の「百寺巡礼」。また檀家としてお坊さんを非常に信頼していて,もちろん葬儀のときもそのお坊さんが来て読経と説法(使い方としてあっているか不明)をしていった。もちろんそのときにお坊さんに法名浄土真宗では戒名と呼ばず法名と呼ぶらしい)を考えてもらって,立派かどうか分からないけれども,「法悦」という法名を授けてもらった。

 父親は,長男として喪主を務めたけれど,正直やりたくなかったに違いないと思う。前の日記で言ったように,自分の家庭は無教会主義のキリスト教徒であって,仏教の作法には詳しくない。もちろんそんなことはあまり関係ないのだろうけれど,それとともに矢面に立たされるのが嫌いな父は葬式中ずっとそわそわしていた。

 葬式が終わったとき,親戚で,といっても祖母の子供とその家族しかいないのだけれど,祖母の家に集まることになった。家をどうするか土地をどうするか,といった現実的な問題を話し合うために。予想していたけれど,いい話し合いにはならなかった。90にもなる祖母を長男である父親がしっかり支えていなかったと言われたり,仲の悪かった祖母と母について色々言われたり。

 正直なところ,伝統的な価値観で言えば祖母の面倒を見るのは長男でありその妻である,というのは常識なんでしょう。自分の両親にとっては表立った反論なんて出来ない。ただ,祖母自体も頑固なとこがあって,うちの家族とは一緒には住もうとはしなかったし,要介護度が高いと判断されたのにもかかわらず,人の世話になるのは嫌だといってホームヘルパーすら呼ばなかった。叔母の一人は立正佼成会の家族で,ともあれば祖母を助けようとしない父や母に対し不審な目で見ていたのは確かなんだろうけれど,こちらも手がつけられなかったと釈明したい。

 ところで,祖母がなくなる2ヶ月前に,祖母は近所の人と大喧嘩をしたらしい。そんな状態でガスなんか使ってたら火事になるし,あんたの家は長屋だから他の家に移ったらまずいよとでも言われたようだ。一人で暮らしていけると自身を持っていた祖母にとって,相当なショックだったみたいで,それからすぐに,ガス会社に連絡してガス自体を切ってしまった。その後ヘルパーさんを呼ばないかという父親の提案に対して,祖母がうなずいたのもこの件があったかららしい。いずれ老人ホームに入ってほしいというのが父の望みで,その提案に対してもそのとき祖母は否定しなかった。このエピソードすらも,葬儀の後の話し合いで父親を責める理由になるようだ。それは長男としての役割の放棄じゃないか,ということらしい。

 祖母の残していったものは,家,土地,墓,そして仏壇という4つ。真宗では仏壇というのは非常に高価なモノで,新聞の折り込みチラシに載るような物でも,1000万円なんてものもある。祖母が持っていたものは200万程度のもので,祖父が死んでから毎日欠かさず線香をあげていた。この仏壇は,何よりも祖母の心の支えになっていたもので,200万だって十分元は取れていると父は笑ったけれど,では残された人間にとってはどれほどの価値があるものだろうか。それはもちろんお墓にしてもそうで,歩けなくなる前まで,祖母は片道2キロの道のりを往復4時間かけて毎日墓参りに行っていたけれど,それが残された人にとってどれほどの価値を持つのだろうか。

 お坊さんが法名を祖母にささげてくれること,それに対してお金を払うことに何の違和感を感じなかった。自分がお金を出してもいいと思えるくらい祖母は宗教に傾倒していたし,お坊さんも非常に自分の家族の事情を分かっていて,色々アドバイスもくれた。

 ただ,それでも,後に残されたものをいつまでも背負っていくことは出来ない。無教会主義の父親に,祖母のために仏壇を引き取れとか,線香をあげろなんて言えるはずもない。ただ,それを一方的な価値観で押し付けてくる圧力みたいなのが,うちの親戚の中にあって,それはもちろん社会の中にもある。

 話がぜんぜんまとまらんけど,人が死ぬと,それを取り巻く人々の価値観が漏れ出して非常に怖い。ただ,うちの家族で唯一よかったのは,財産の相続に関してひとまずもめていないということだろうか。(ただし,土地に関して父親兄弟で共同相続したのは本当に馬鹿だと父親に言ったんだけれどね) 
 

 

宗教家を名乗るのなら,最低限知ってた方がいいことはあると思う

 某キリスト教系の宗教勧誘が来て
「聖書を読んだことはありますか?どこか印象に残っているところはありますか」
ときかれたので

「コヘレトの言葉です」

と答えたら,ポカーンとしてた。いやいや,分からないなら最初から聞くなよと思うし,伝道者なら知ってて当然でしょとも思う。

 ちなみにうちの両親は無教会主義のキリスト教徒で,息子である自分はその名をかたりつつ,聖書のほとんどを読んでいないという有様。ただ,親から聖書をもらったときに

"青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。”
コヘレトの言葉12章1節

と聖書にかかれたことは非常に覚えている。

安心って何だろうね


 近くのドラッグストアで買い物中に流れるアナウンス
「お客様が安心して買い物できるように当店では,私服警官・警備員が巡回しております」
 どうも,ドラッグストアでは,お客様が被害を被るような犯罪を想定しているらしい。

 自分にとってドラッグストアで私服警官が巡回してたら「自分って万引きを疑われているの?」と思ってしまうのだけれど。

Metal Gear Solid 4 Guns of the patriotsについていろいろ1

6/14の予告というか,独り言どおりに,MGS4の感想を書いていきます。

  • オープニング

 メタルギアというと,初代メタルギアソリッド(以降MGS1とする)から結構長めなオープニングだったと思う。初代では,アラスカの孤島に水中から小型艇で潜入するデモ。メタルギアソリッド2(以下MGS2とする)では,デモシーンではなく本当にオープニング用に作られた専用のムービー。メタルギアソリッド3でも同じよう。
 ただ今回のMGS4ではオープニングがないんですね。しいて言えば,スタート画面での映像でしょうか。多くの墓が並ぶ墓場で,おそらく年老いた主人公であるオールド・スネーク(ソリッド・スネークが前作までの名前)が墓に歩み寄りタバコを一服する。その後,ゆっくりと手にしたハンドガンに弾を一発だけ込め,ひざをついて,その銃口を自らの口に向け咥える。非常に物悲しいオープニング曲の中で流れるこの映像は,まさに主人公のスネークの最期の物語を示唆していて,ずっと続編を待ってきた自分にとっては非常に物悲しい。やっぱり最期なんだねと,思ってしまう。

 この墓はいわゆるPotter's fieldと言われる箇所らしい。名をかたることの出来ない英雄たちの墓だと。前作MGS3ではエンディングで,オールド・スネークの父親,ネイキッド・スネーク(正確にはオールド・スネークはネイキッド・スネークのクローン)がこの場で敬礼をしながら涙を流すシーンがある。ネイキッドは,かつての師匠を自分の手で殺してしまったのち,この場で敬礼をし,涙を流す。オールド・スネークもオープニングではないけど,後のシーンで実際にこの場で敬礼をする。これももちろんネイキッドとの対比なんだろうけれど,果たしてオールド・スネークはこの墓の前で誰に向かっているのだろうか。かつて自分が廃人にし,自らの前で命を絶った友人グレイフォックスか,自らの手で殺したビッグボス(ネイキッド・スネーク)か,はたまた同じ遺伝子としてソリッドとともに作られたリキッド・スネークに対してか。おそらくはグレイフォックスではないかと思うけれど,答えは語られることはない。

 でもプレイヤーはオールド・スネークの最期を見届けるためにスタートボタンを押さなくてはいけない。

 さあ,始めましょうか。

小島秀夫という人物を知ったきっかけと,メタルギアソリッドという物語について

今週のお題「ゲームと私」

 中学時代,とある友人に「お前は今日から監督ね」といきなり言われた。なんじゃそりゃと詳しく聞き返すと,とあるテレビゲームの製作者が「監督」と呼ばれており,お前は「監督」に似ているからだ,とそういうことらしい。当時の自分は前髪を左右に分けていて,眼鏡をかけていたというだけなんだけれども。そんな中学生活のいちシーンで小島秀夫というゲームクリエーターを知った。たぶんこれがなければ,こんなにこの人のゲーム作品に傾倒することはなかったと思う。
当時の小島監督はこちら。確かに似てるといえば似てる。このころの小島監督はまだクリエーターと言う感じ。
D
結局中学時代の自分はテレビゲームに理解のない両親のおかげで,小島秀夫のゲームで遊ぶことはなかった。ただ,メタルギアソリッド2の体験版をゲーム屋でよくやっていたのを覚えている。

 実際に彼の作品に手を出したのは大学に入ってから。2005年ごろに初めて据え置き型のコンシューマーゲームを手にした。あの時バイト代が十数万入ったので,17型テレビデオと同時に購入したはず。最初にやった作品がゲーム屋で何度も遊んでいたメタルギアソリッド2だった。
正直なところ,初めてエンディングを迎えたときはよく分からないストーリーだと感じた。と言うよりも覚えていないといったほうが正しい。初回プレイがこんなに印象のないものだったんだなと,今思うと不思議な感じがする。ただ,隠れて進むというゲーム性に惹かれ初代メタルギアソリッドも購入。そして,メタルギアソリッドをやった後,メタルギアソリッド2をやり直して感じたこと。
 これを作った人はすごい。すごいとしか言えないだけの,それだけのインパクトがあった。すでにやったゲームをやり直して衝撃を感じるという不思議な感覚。

 PS版メタルギアソリッドでは,主人公のスネークは単独核弾頭廃棄所に潜入する。そのなかで人質を助け,核発射をもくろむ元特殊部隊と戦っていくという物語。この物語の中で,主人公は自分の出生の秘密を暴露される。自分がかつて殺した元上官のクローンであるという事実に。色々な陰謀が絡み合い,結果スネークは核発射を防ぎ,ともに戦った女兵士と脱出する。

 一方メタルギアソリッド2では主人公は若い新人兵士になる。主人公の雷電は単独海上プラントに潜入する。そのなかで人質を助け,核発射をもくろむ元特殊部隊と戦っていくという物語。この物語の中で,雷電は自分の出生の秘密を暴露される。色々な陰謀が絡み合い,結果雷電は核発射を防ぎ,ともに戦うことになったスネークと脱出する。

 同じ話なんですよ,これが。同じストーリーを別の主人公が歩む話。メタルギアソリッド2では,そのからくりが雷電自身にも最後示される。何故スネークと同じ物語を雷電は背負わされたのか。
 海上プラントは世の中を統制する高度情報システム(G.W.)の性能を確かめるための実験場だった。ある極限の状況下で,人間を操ることの出来るシステムの生成のための巨大な実験。実際に雷電は思うが侭に操られ,人質を助けようとし,核の発射を防ごうとし,それに成功する。そんなシステムに操られた状況がエンディングまで続くのだ。その中で雷電は悩む。果たして自分というものが何なのか,そして自分の彼女の実存すらも疑ってしまう。

 ただ,果たしてシステムに操られていたのは雷電なのか。いや雷電は実際に操られていたけれど,彼を操っていたのはまさしくゲームをするプレイヤーではないか。しかも,プレイヤーはまんまと雷電の上官である人物(実際には単なるAIに過ぎなかった)の指示に従い,人質を助けようとし,核発射をもくろむ元特殊部隊を倒そうとする。つまるところ俺らプレイヤーだって操られていたじゃないかと。主体的に指を動かし,映像に心を動かされ,登場人物の死に涙する。それらだって結局,このゲームと言うデジタル情報に操られていたことではないのか。

 メタルギアソリッド2では,最初に自分の胸のドッグタグ(兵士が胸にかけるもの)の名前を入力させる。それは,ストーリーの中では全く出てこないもの。しかし,無事脱出した後,スネークが雷電に向かって声をかける。

「(ドッグタグを見ながら)その胸にあるのは?」
「知っている名前か?」

 雷電の答えはこうだ。
「いや,知らない名前だ」

 AIに操られていた雷電が,スネークと出会い,エンディングで以前の名を知らないという。
 果たして自分というものが何なのか
 それを悩み,スネークと語った後に雷電が紡ぎだす言葉。ここで雷電は自分と言うものを取り戻すことになる。

 しかしデモシーンで記入されている文字は,かつてこのゲームを始める際に自分が書いた名前。この時点で僕らプレイヤーはまさしく雷電という役割から開放され,なおかつ今までの自分ではない自分に気づくのだ。そしてその後のエンディングのスネークの言葉が以前ブログで書いたこの台詞。



「人の人生は――
子供たちに遺伝情報を伝えるだけじゃない
人は遺伝子では伝達できないものを伝えることができる
言葉や文字や音楽や映像を通して
見たもの 聞いたもの
感じたこと・・・
・・・怒り 悲しみ 喜び・・・
・・・俺はそれを伝える
伝えるために生きる
俺達は伝えなければならない
俺達の愚かで 切ない歴史を
それらを伝えるために
デジタルという魔法がある
人間が滅びようと
次の種がこの地球に生まれようと――
この星が滅びようと・・・
・・・生命(いのち)の残り香を後世に伝える必要がある
未来を創ることと
過去を語り伝えることは同じなんだ」

スネークはプレイヤーを開放する鍵であり,語り部であり,主人公なのだ。

 メタルギアソリッド2はシリーズのほかの作品の中では評判がよくないほうにあたる。特に販売したてのころは,主人公がスネークではないことや,説教くさいエンディング,分かりにくいストーリーと散々だったらしい。当時の小島監督のコメントを確認してみると
D
やはり,主人公が雷電であることを釈明してる。けど,この物語のテーマ“デジタル”でどう,何を残していくのかというものであり,それをスネークに語らせるためにはやはり新人の雷電でなくてはならなかったと思う。というわけで,メタルギアソリッド2がつまらないという人はもう一度PS版の初代メタルギアソリッドから始めてみましょう。

 ま,そんな感じで一応今週のお題を書きました。昨日の日記でもよかったんだけれど。